猫を起こさないように
日: <span>2012年1月11日</span>
日: 2012年1月11日

MMGF!(9)

長い尾に身を沈ませていた毛皮の哺乳類が、気配を感じて直立する。その瞳は、あらかじめ与えられた約束が成就するのを待ちきれないように、大きく見開かれている。
大気が帯びた冷気には、ある種の期待感が高まりつつある。水平線の輪郭を光の軌跡が彩り、半身をのぞかせた太陽は宝石の如くきらめく。はるか沖合いから、波濤が陽光をリレーする。それはやがて浜辺へ達し平原へ満ちると、小さな動物たちとの古い約束を果たした。
前傾に両腕を垂らし、虚ろに地面を眺める様子は、まるで無機物のようですらある。永久に名を知られぬ彫刻家の手による塑像が、ある人外の妄執により延々と複製され続けて、地表を埋めてゆく。
市街地からわずかに離れたところへ佇立する古びた建造物を取り囲む黒い一団は、夜明けの清浄さでさえ塗り返すことが適わぬ死の染みだ。
だが皮肉なことに、注がれた陽光は塑像たちを次々と蘇生させてゆく。まるで光と影の境界が、生と死の境界を具現するかのように。
誕生したばかりの陽光が二つの尖塔へ到達すると、学園の最も長い一日が始まった。
学園関係者たちは、便宜上の戦術単位として二十三個の大規模隊と二個の小規模隊に配備された。
戦術単位、などと言えば格好よく聞こえるが、所詮は一日足らずで練りあげた突貫である。内実は、体技科のメンターを中心に据えた寄せ集めで、隊ごとの構成人数もまちまちだ。
各隊は第一理事銅像北隊とか、第十八旧棟便所東隊とか、各個の防衛すべき外壁に最も近い施設の名前をつけられた。
二個の小規模隊は特定の防衛箇所を持たない機動部隊で、遊撃的な役割を与えられる。
体技科長は壁の外側を、スウは壁の内側を担当する隊に組み込まれた。
装備は悲しいほどに不ぞろい。史学科が抱えこんでいた発掘品を大量に放出したが、様式や年代などの統一は望むべくもなかった。直刀に曲刀、長柄に鉤、なんでもござれだ。中には、グラン・ラングの付与を得た本物のアルマもあったようだが、それは幸運な数名の生存率を上げるに過ぎないだろう。
どれもこれも苦肉の策ばかりだ。けれど同時に、学園の資源を最大限に考慮した内容でもある。
何か大きな視点が学園上空から俯瞰したとすれば、奇しくも組織の本質を露にしたかのようなバラバラの見かけに苦笑するに違いない。はたして本気で争いを始める気があるのか、と。
いつのまにか吹きだした汗がじりじりと頬をつたい落ち、その感触が極大へ向けて際限なく飛翔してゆくぼくの意識を中庭へと引き戻した。
マアナはぼくの肩に顔を埋めたまま、じっとしている。この子が学園の命綱であり、最終兵器だなんて言っても、誰も信じないだろうな。
袖口で額をぬぐう。
ペルガナ市国の気候は温暖だが、漁民の言葉を借りるなら「潮の流れと呼応して」変化する。ぼくが生まれた土地ほどではないにせよ、どうやら季節と呼べるものが存在するのだ。
尖塔の屋根に照りかえす陽光のまぶしさに目を細める。どうやら、今日は暑くなりそうだ。
滅びは夏の盛りなり、か。
昔どこかで聞いた言葉が、耳によみがえる。
手に入れていないがゆえに純粋で、何も知らないがゆえに鈍感で、死とは最も遠い世界に住んでいたあの若い日々、ぼくが人間の消失へ向ける夢想はただひたすらに甘かった。死と破滅へコントラストを成すのは、生命と繁栄だろう。
だから、人だけがこの世界から取りのぞかれるとすれば、それはきっと一年で最も暑い日の――
「昼餉の時間でしょうか」
メンター・リンが小首をかしげる。
「いや、正午から日没に至る時間のちょうど真ん中くらいだろう」
思わず釣りこまれて返答するが、まるで思考を読んだみたいじゃないか。
「ところで、ぼくはしゃべったかな」
「はい、覚えてらっしゃらないと思いますが。学園のプロテジェだった五年前、メンターとお話をしました」
そして、間抜けな質問の意図は伝わらなかったらしい。
もとより、天然ぽいというか、思いこみの強い子だ。
行き違いを正そうとして、リンの口調に珍しく熱のようなものが含まれているのに気づいた。ぼくは黙って続きを聞くことにする。
「郊外の史跡でグラン・ラングの実地研修を行っているとき――」
昔からおんなじことやってたんだな、ぼくは。
「メンターは私に目を留めて、おっしゃいました。『発音がきれいだ。才能がある』って。生まれて初めて、人にほめられたんです。あの言葉がきっかけでした。私は、あの言葉に救われた」
いい加減なぼくのことだ。きっと、誰にでもそう言っていたのにちがいない。
だが、ぼくのいい加減な言葉だけを頼みにして、これまでの長い道程を歩みきた少女がいる。
「だから、今度は私がメンターを助ける番です」
ぼくはきっと、メンターなんかになるべきではなかった。
けど、ぼくへ向けられる真摯な視線の分だけは、きっちり仕事をするべきだ。
「もちろんだ。君を抜きにして、この作戦は成立しないからね」
いつもは無表情なリンが、ほんの一瞬だけ、にこりと笑った。
うろたえたときの軽口が、ほとんど反射的に口をつく。
「あのさ、もしかして今日もローブ一枚だけなのかな」
怪訝そうに小首をかしげるリン。
「一度成功した実験の追試に、わざわざ条件を変える必要を認めません」
なるほど。優等生だ。そしてやっぱり、天然だ。
小走りに配置へと駆けてゆくリンの背中に差す陽光を見る。やがて太陽は地をあまねく照らすだろう。
己の死を容認しよう。だが、ペルガナ市国という場に集まった人々の歩みが今日すべて途絶すること、それはとうてい受け入れられない内容だ。
四方の白布を通して、外壁を取り巻く黒い輪が収縮しはじめるのが見えた。
「連中、ようやくおいでなすったぜ」
「防衛が破られた箇所が出たら、指示をくれ。現場へ急行する」
体技科長とスウの声が、すぐ耳元でささやく。
スリッドはどこへ行ったのだろう。いずれかの隊へ組みこまれているのか、それとも郊外へと避難を果たしたのか。
結局、人を動かすのは人でしかない。
正直なところ、日をまたいだ長大な会議が必要ない世界というのは、ほんの少しだけ魅力的だ。例えば、体技科長とスリッドとぼくが何の対立もなく同じように思考する世界は、もしかするとより良い場所なのかもしれない。
けれど、いまならば断言できる。
そこは少なくとも、美しい世界ではない。
大きく深呼吸をする。
マアナの唇が首筋に触れ、ぼくの唇が言葉をつむぐ。
古代より連綿と受け継がれてきた、万物を支配する契約の言葉。
世界を構成する、初源の言葉。
無限の彼方からエネルギーの奔流が螺旋のごとく駆け登り、ぼくを通じてこの世界へと解放される。
衒いは消え、装いは忘れられた。
高まる感情は千々に乱れることなく、ただひとつのゆらぎない名前を持った。
渦巻く言葉は力みなぎる躯幹と完全に合致している。もはや、これから起こることへ何の疑いもない。
ぼくは大声で叫ぶ。
「さあ、学園を守るぞ!」
間髪を入れず、四方から吼えるような唱和が響く。
続いて最初の激突が、大気を震わせた。
学園の防衛網は一人の死者も出さず、流民たちによる最初の一撃を見事に吸収した。
第一に、敵個体能力の測定が正確であったこと。これは斥候の成果であり、スウと体技科長に感謝しなければならない。
第二に、魂の高揚がもたらす恩恵を防衛網の全員が享受していたこと。これは、マアナの存在なくしては不可能だった。
しかし、すべては危うい均衡のはじまりに過ぎない。わずかな要素の変化で、途端に天秤のバランスは大きく傾いてしまうだろう。
いったんエネルギーを付与すれば、ぼくの仕事はそれを維持し、漸減する分をときどき注ぎ足すだけになる。この防衛戦をどう終息させるか、考えなくてはならない。
流民側の基本戦術は、波状攻撃だ。上空から眺めれば、繰り返される攻撃は文字通り、学園の外壁に打ち寄せる黒い波のように見えるはずだ。
お互いが邪魔にならない密度で、第一陣が突撃する。撃退されれば第二陣が攻撃を継続する。こちらが根をあげるまで、それを延々と繰り返すつもりだろう。
単純だが、数の優位を最大に生かせるし、戦線が混乱する心配も少ない。ぼくしか知らない情報を加味して考えるならば、逆に司令塔が存在しないゆえの消去法とも考えられる。
だが、外壁を突破した後はどうするのか。挟撃による防衛網の弱体を企図するならば、内外の連動を抜きには考えられない。そのためには、明確な指揮系統が必要なはずだ。
疑問を解決する機会は、ほどなく訪れる。
「第五隊が一部流民の侵入を許したようだ。真っ直ぐにそちらへ向かっている。本機動部隊は追撃に移る」
スウだ。なるほど、すべてはあらかじめ織りこみ済みってわけか。
ぼくの仮定はこうだ。
一つ目の指令は、防衛網の突破には波状攻撃をもってせよ。
二つ目の指令は、突破を果たした後は各自『世界の中心』を目指せ。
三つ目の指令はおそらく――
ぼくはこめかみに指を当て、スウへと指令を飛ばす。
「第一機動部隊へ。ひとりだけ逃してくれ。確認したいことがある」
「いつもの酔狂ではないだろうな」
三白眼がすぐそこに見えるようだ。だが、あえて無視する。
「復唱は?」
「了解した。ひとりを除いて、侵入した流民を殲滅する」
ため息がすぐそばで聞こえるようだ。
ぼくはつとめて平静な調子で、同僚たちへ話かける。
「第一機動部隊から連絡があった。ひとり逃したそうだ。すぐにここへやってくる。君たちに危害は及ばない。狙いはぼくだ。持ち場を堅守するように」
言い終わるか終わらないかのうちに、東側の白幕下部を切り裂いて、怪人が姿を現す。
ほとんど地面にまで垂れた長い両腕に、肉厚の短刀を提げている。人のようでいて、人のようでない戯画的な外見。初めて目にするその姿に、周囲の同僚メンターたちが思わずといったふうに、おお、と声を上げる。
見事に予想を裏書いてくれた。狙いはマアナだ。
つまり、三つ目の指令は『世界の中心』を破壊せよってことか。
そして北側から、万を持しての二人目が登場する。おいおい、聞いてないぞ。
「すまない、二人逃した。中庭へ急行する」
「こちらは全く問題ない。第五隊の援護へ向かってくれ」
痩せ我慢で余裕を醸成するのは、メンターの得意技だ。
「サンプル数の多さは、実験の信頼性を高める要素だからね」
ここにマアナがいることを、流民たちがあらかじめ知る手段はなかったはずだ。二人がほぼ同時に中庭へ到達したことから逆算すれば、おそらく目標を発見する生体感知の機能を備えているのだろう。いちいち自己嫌悪をかきたてる連中だ。
二人の怪人は周囲の同僚たちへは目もくれず、じりじりとこちらへ歩を詰めてくる。
グラン・ラングをつぶやくと、大気中から指先に熱が集まってくるのを感じる。
その急激な上昇に伴って、中庭はわずかに気温を低下させた。
静寂と静止。高まる緊張は時間さえ止める力を持つようだ。
額から垂れた汗が両目へ流れこみ、一瞬だけ視野を封じる。
回復した視界に怪人の姿は無かった。
上か。二人は、同時に跳躍していた。
可視化された赤い熱線が、弧を描き宙を凪ぐ。
一人が蒸発し、一人が左腕を失う。仕損じた。
落下の勢いを駆った短刀が、眼前に迫り来る。
次の施術が間に合う距離ではない。
だが、ぼくは少しも慌てなかった。
迫り来る氷の矢が、怪人の方を先に貫くと知っていたから。
立ちのぼる黒い煤の向こうで、リンが右腕を掲げている。はだけた肩口がなまめかしい。
「メンター・リン」
「持ち場は離れていません」
憮然とした表情。いや、元々か。
「持ち場を離れて、こっちへ来てくれるかな」
手まねきすると、素直に小走りでやってくる。小さな動物みたいだな。
ただ、ボスのいない言語学科で、グラン・ラングの運用に限れば最も優秀な小動物だということを忘れてはならない。
「いまから、ドミトリへ向かう。その間、付与の維持を任せる。指揮については、防衛網のほつれを両機動部隊に通達するのみで構わない。もし判断に迷うことがあれば、連絡を寄こしてくれ。すぐにもどる」
こっくりとうなづく。先輩メンターの指示だから従うのではない。聡明な瞳の奥でぼくの真意を過不足なく汲んでいるのだ。
「まかせたよ」
ぽんと頭に手をおくと、ぶるりと震える。武者ぶるいってやつかな。
「かならず。かならず」
リンはなぜか、二回繰り返した。
ドミトリを防衛する部隊は存在しない。ここを突破されると、旧棟へも新棟へも簡単に到達することができる重要拠点にも関わらずだ。
理由は単純。この土地は古い盟約に守られ、不落を約束されているからである。
屋根の上からの眺めは壮観だ。流民たちは続々とドミトリへ集結しつつあった。まるで何かに吸い寄せられるように。
のぞきこもうと首を伸ばすマアナの頭を後ろから押さえつける。自覚あんのかな、もう。
ほっそりとしたシルエットが逆光となって浮かびあがる。流民たちは己の敵を認識し、威嚇に吠え猛る。
ただでさえ不安定な足場で風にまかれて、まったく揺らぐ様子もない。おそろしい平衡感覚だ。これもグラン・ラングの盟約が成せる仕業なのか。
たなびく髪は青みがかっており、かすかに花の香りを漂わせている。
ふたつのガラスを通して見る瞳は憂悶を湛えており、ほとんど眼下の状況に退屈しているようにさえ見える。頼もしい限りだ。
「いってきます」
まるで日課の散歩にでも出かけるような口調で、迷いなく宙へ身をおどらせた。
そして、盟約を体現する少女が空から降ってくる。
空中で姿勢を制御するのは至難だ。シシュの落下地点にあやまたず刺し込まれる無数の短刀。
しかし、そこには一本の古びたほうきがたたずむばかりである。完全に物理法則は無視されていた。
あのほうき、アルマだったのか!
信じられないことに、シシュは柄の先端に片足で体勢を保持している。
腕組みをしたまま、つま先で鋭く円を描くと、たちまち八方に衝撃波が広がる。蝟集した流民たちは吹き飛ばされ、敵の只中に空白の橋頭堡を作りだす。
スカートの裾をふくらませながら優雅に着地すると、ほうきの柄に軽く手を添えた。
「洗濯に掃除、まだきょうの仕事を残しております。手短にお願いいたしますわ」
少女を中心とした空白を奪還するべく、流民たちが殺到する。
突き立てたほうきを支柱に見立て、シシュの身体が地面と水平に大きく回転する。最初の一陣が煤と化した。
迫る怪人へ足刀が刺さる。つま先まで蹴りこんだみぞおちを階段代わりに跳躍し、空に逃れる瞬間に膝で顎を粉砕する。
天地逆の姿勢から、ほうきの柄による刺突が五回。
遠心力を充分に乗せた踵が着地地点にあった頭蓋を粉砕し、そこからの速度は目で追えるものではなくなった。
舞いあがる黒い煤を切り裂く軌跡だけが、技の実体を浮かびあがらせる。襲いくる敵が増えれば増えるほど、その動きは速く、その一撃は重くなってゆく。
決死の一人がシシュの首筋に腕をからませ、真後ろに体重をかける。脇腹への肘打ちで拘束は解かれるが、一瞬だけ動きを止めるには充分だった。
インパクトの瞬間、回避不能の刹那に短刀が繰りだされる。肉厚の刃は間違いなくシシュの細い胴を貫いたと見えた。
だが、短刀は直角に折れ曲がっていた。シシュの蹴り足がまるで舞踊のように、真っ直ぐ天へと伸びる。驚愕の表情を張りつかせたまま、怪人は消滅した。
攻めの手段を失った流民たちは、身を呈してシシュの上へ折り重なってゆく。シシュの手数を己たちの人数で上回ろうというのか。おそろしい人海戦術だ。
やがて、少女の姿が折り重なる肉の下へ見えなくなる。
圧死させるつもりだ。たまらず、ぼくはグラン・ラングの施術を開始しようと身を乗りだす。
瞬間――
流民の小山が、内側から爆発した。
巨大な竜巻にでも呑まれたように、宙へ舞いあがる人・人・人。
爆心地には、ほうきを逆さに構えたシシュが仁王立ちに立っていた。ところどころ衣服が破れ、眼鏡は半ばずり落ちている。
「もーッ!」
屋根の上にいるぼくの鼓膜を突き破るかと思わせる絶叫。
すごい地団駄だ。完全に怒っている。
そしてほうきの一閃。滞空していた流民は、たちまち形象を崩壊させる。
同心円状に爆風が広がり、漂う黒い煤を一気に吹き飛ばした。さすが、アルマだけのことはある。
「全員まとめて、ぶっとばす!」
鬼気迫る表情。いまのシシュは、前の寮長にそっくりだ。やっぱり血がつながってるんだなあ。鬼の血脈か。
そして言葉通り、ぼくの横を木の葉のように怪人が飛ばされてゆく。怖すぎる。
ほどなくして、流民たちはたまらず撤退を開始した。もう二度と、ドミトリ側から攻め入ろうとは考えるまい。
絵本の魔女のように、腰かけたほうきで宙を舞い(こんな機能まであるのか)、すまし顔でシシュが戻ってくる。
マアナがものすごい恐怖を示して、ぼくの首にしがみつく。本能的に、身の危険を察しているのかもしれない。
シシュは眼鏡の位置を直しながら、こほん、と咳払いをする。
いまやその瞳に宿るのは憂悶どころではない。隠蔽と狼狽だ。
「あの、わたし、メンターのお役に立てましたでしょうか」
声のトーンが普段よりひとつ高い。
「攻め手は大幅に数を減じました。もうドミトリ側から学園内へ侵入しようとは考えないでしょう。偉大な戦果です」
ぼくはシシュの動揺には気づかないふりで、握手を求める。握りかえしてきた手のひらは、数千の敵を一掃した功労者にしては驚くほどに小さく柔らかく――
そして、少し湿っていた。
体技科長の隊が奇襲をかけて挟撃し撃退する。防衛網にほころびが生じればたちまちスウの隊により修復される。
ドミトリでの要撃で流民側に与えた損害は甚大だったが、物量を頼みにした一辺倒の戦術が変わることはなかった。繰り返される攻撃に、こちらはほとんど損耗していないにも関わらずである。
しかしその単調さは、時が経つにつれて不気味な心理的圧力として機能しはじめた。
「各隊、状況の報告を願う」
「第一隊、損耗軽微」
「第十四隊、重傷者発生。保健部の派遣を乞う」
「第八隊、流民の侵入を一部阻止できず」
「第一機動部隊、ただちに第八隊の防衛網修復へ向かう」
底の見えない物量による波状攻撃は、永久に終わりがないかと思われた。少なくとも、実際に前線を維持している者たちにとって、永久という言葉は例えではなく実感であったろう。
個対個ならば、流民たちと防衛側にある身体能力の差分を補ってやりさえすれば、打ち負かされる要素は少ない。また、士気に高められた自由意志は、グラン・ラングによる補助に負けぬほど、個の能力へ正の影響を与えてくれる。
しかし、それは裏返しに反転する危険性を常にはらんだ上昇分であることを忘れてはならない。
常人に倍する速度で襲いかかる攻め手を、わずかに上回る速度で打ちたおす受け手。刃が怪人へ埋まる瞬間はまるで肉のような手ごたえだが、傷口から噴き出すのは赤い血液ではなく黒い煤だ。そして、直ちに蒸気の如く消滅する。死体は残らない。
この流民たちが、ペルガナ市国の人々と似ていなくてよかった。だからこそ、皆がほとんど痛みを感じずに殺すことができる。
でも、ぼくは知っている。色調をたがえただけの、同じ魂の輝きが双方に宿っていることを。
誰かから何かを奪えると思うとき、争いは起こる。しかし、この流民たちはぼくたちから何も欲しがってはいない。ならば、なぜ死を賭してまで襲ってこなければならないのか。
答えは一人の少女にある。こいつらはたぶん、マアナを殺したがっている。けれど、その死が流民たちにとってどんな利益につながるかがわからない。もしかすると、まだ見えていないものがあるのか。
ぼくは頭をふった。いまはそれを考えるときじゃない。まずはこの戦いを終わらせるんだ。
流民たちの戦術が互いの特性までを考慮に入れたものだとすれば、時間の経過につれてその意図は的中してきていると言わざるをえない。
彼らは個の見かけを持ちながら、総体としての意志が判断を行う。対してぼくたちは、個のそれぞれが意志を持つ。個に判断の余地があることが、ゆらぎへとつながる。無限に続くように思える見かけが疲労をつのらせ、意気をくじき、疑惑を生み、ついには瓦解へと連鎖してゆく。
時間をかければかけるほど、不利になるのはこっちだ。
「一気に押しつぶせるなら、そうするはずだ」
各防衛部隊へ、グラン・ラングを使って呼びかける。
「本営からの俯瞰では、次第に学園を取り巻く流民の層は薄くなってきている。もう一息だ、みんな」
だが、実際のところ、白布に映しだされた光景はぼくの言葉を裏切っていた。
前線で打ち倒され、黒い煤となって蒸発した流民たちは霧のように包囲の外縁へと漂い――
なんと、人の形に再生していた。波状攻撃を選択した根拠は、これだったのか。
だとすれば、ぼくの消耗が限界に達した時点で、この戦いの勝敗は決する。
“魂の高揚”により底上げされた身体能力は、疲労の分だけ漸減してゆく。その減退分をぼくが補充する。マアナを通じて供給されるエネルギーが本当に無限だと仮定しても、それを外へ送り出すぼくという出口は無窮どころではない。
時間の経過につれて、ぼくは水の流れに削られる河口のように己が磨耗してゆくのを感じていた。
リンがときどき、不安そうにこちらを振り返る。もしや気づいているのか。ぼくが倒れた瞬間に、いま現在保たれているように思える優勢の見かけは逆転する。
痩せ我慢は職業がら得意だ。しかし、学園の破滅を天秤にかけた痩せ我慢を強いられることになるとは――
ぼくは少しだけ笑った。まだ笑えることが、ぼくを安心させた。
無論、ただ座して破滅を待つつもりは毛頭ない。
ヒントは、シシュのアルマ。
あのとき、形象を失った流民たちは再生することができなかった。おそらく、再生の瞬間に吹き飛ばされたからだ。
細心の注意で、二つの機動部隊にのみ伝令を送りこむ。ぼくの推測が間違っていれば、学園には衰弱の果ての死と全滅しか残されていない。
「倒した流民の個体が再生しています。包囲の外縁を叩いてください」
他の誰とこれを共有できただろう。
実際に見なければ――いや、実際に見ている者にとってさえ、それは極めて非現実的な光景だった。どれほど言葉を尽くしたところで、スリッドあたりならとうてい信じるまい。
優秀なプロテジェが共通して持つ資質の最たるものは、例え疑問を抱いてもいったんは疑問ごと、すべてを飲み込むところだ。後からできる批判や検証で、いまという純度を薄めない姿勢が彼らを向上させる。人間と、人間が作り出したものを尊重する態度、と言い換えてもいい。
このとき、二人は毫ほども疑問を差しはさまなかった。
「承知した」
「急行する」
体技科長を先頭にした隊が、第五隊との挟撃から流民たちを突き崩し、包囲の外縁へいったん大きく離脱する。騎馬による突撃の力を最大化するためだ。
ひとつの波が防衛隊の前に砕け散り、羽虫のような音を立てて煤が上昇する。まるで黒いカーテンのようだ。
その煙幕を切り裂いて、騎馬が外壁を飛び越える。スウを先頭とした隊が流民の群れへと上空から襲いかかった。不意をつかれた一角はたちまち瓦解し、騎馬の一団は包囲の厚みを切り裂いて外縁へと到達する。
二つの機動部隊が交錯した。あとはリンゴの皮むきの如く。
鋭い二つの刃が、時計回りと反時計回りに包囲の外周を削りとってゆく。
再生も半ばに、形象を崩壊させる怪人たち。飛び散った黒い煤は、今度こそ重さを伴った塵となって地に落ちた。
流民たちは学園の外壁に背を向け、機動部隊を迎撃する構えだ。
「いったん離脱してください」
ぼくの指令を受けて、二つの隊が水面にはねる石のように大きく回避行動を取る。
学園の周辺に見えない境界があるかのように、一定の範囲を越えては追撃を行おうとしない。しばらくすると流民たちは機動部隊を無視して、学園の外壁へと向きなおった。
予想通りの動きだ。
機動部隊が無防備となった背後から再び奇襲をかけ、即座に離脱する。
あとはその繰り返しである。ほんの半刻ほどで、包囲の輪の厚みが減じているのがわかった。
そこからの展開は、掃討戦に近い。
数の減退とともに、局所では明らかな力負けを見せはじめているのに、波状攻撃という戦術に変更は見られず、撤退の気配もない。やはり、あらかじめ組みまれたいくつかの指令を実行しているだけなのだろう。
無限という恐怖から解放され、防衛側の士気は高まる。士気が高まれば疲労は意識されにくくなり、結果ぼくの負担も減ってゆく。
よし、勝てるぞ。
予感が確信に変わったそのとき――
雹が地面を叩くような音が周囲から響いた。
流民たちのすべてが黒い塵と化し、いっせいに地に落ちたのである。
これで終わり?
誰もが呆然と立ち尽くしていた。あれほど待ち焦がれていた終わりが、あまりに簡単に与えられたことを信じられないかのように。
まばらな歓呼が響く。
「ユウド、どうなってやがんだ。全員、消えちまいやがったぜ。まさか、逃げたんじゃねえだろうな」
体技科長は不服げだ。決着を前に、喧嘩相手に逃げられたとでも思っているのかもしれない。
「わかりません。もしかすると――」
答えようとして、中庭の空気が細かく震えているのに気づく。
可聴域ぎりぎりの、耳に痛いほどの甲高い音が大気を満たしてゆく。
旧棟が震えている。ひとつながりの巨大な石が、共鳴する音叉のように震えているのだ。
――見つけた。
ともすれば聞き落としてしまいそうな、ほんの小さなささやき。
突如、周囲に闇が降りた。
まだ日没にはずいぶん早いぞ。日蝕か?
ぼくはハッとして天を振り仰ぎ、絶句した。
「なんてことだ」
灼熱をまとった円柱が轟音とともに、雲を裂いて落ちてくる。
その大きさは少なく見積もって学園の敷地ほどはあろうか。
まさか、こっちが本命だったのか!
皆の安堵へ滑りこむようなタイミングだ。
日常の感覚をはるかに超越する事象に、誰もが自失している。
あの質量があの速度で激突すれば、ひとりとして無事では済むまい。
いや、学園そのものが根こそぎ地上から消滅させられるだろう。
さまざまな思いが瞬時にぼくの中をかけめぐる。
死。全滅。
どうする、どうする。
いや、もうすでに答えは決まっているではないか。
学園と破滅との間に、我が身を差し込むのだ。
グラン・ラングとともに両手を掲げると、上空に皿状の力場が発生した。
マアナのエネルギーでそれを拡大してゆく。この手で受け止めるしかない。
力場の直径を旧棟の上空すべてへと広げた瞬間、円柱が激突した。
激突は衝撃波となってはじけ、東の尖塔を吹き飛ばす。
掌、腕、肩、腰、膝、踵。
直上から直下へと重さが突き抜ける。
身体の中でイヤな音がし、膝が落ちた。まずい、これじゃまだ足りない。
円柱が傾いで横へ流れ、旧棟の一部を削りとる。悲鳴のような甲高い音。
だめだ、支えきれない。
「メンター・ユウドを助けて!」
両手を突きあげながらリンが、あのリンが、感情をむきだしにして叫ぶ。
我に返った同僚たちがリンへ続くと上空の力場は厚みと直径を拡大する。
円柱はわずかに押し戻され、旧棟の屋上すれすれのところで静止した。
車輪に轢かれる蟷螂のように、最初の一撃でぼくが潰されてしまわなかったのは、奇跡的だった。メンター・リンの機転がぼくを救ったのだ。
しかし、上空では巨大な円柱がゆっくりと回転しながら、まるで獣のような低い唸り声を響かせている。
はたして、どこまで持ちこたえられるだろうか。
やがて、中庭にメンターたちが続々と集結しはじめる。指令が途絶えたせいで、状況をはかりかねたのだろう。
その中にはブラウン・ハットの長官や史学科長、学園長もいた。市民たちと一緒に逃げるよう提言したのは、受け入れられなかったのか。腰にしがみついたマアナが、不安げにぼくを見つめてくる。
誰もが天をあおぎ、慨嘆するばかりだ。採るべき方法はひとつしかなく、皆がそれをわかっている。
ただ、誰もがそれを最初に口に出す人間になりたくないだけだ。
ならば、ぼくが言うしかない。すまない。心の中で同僚たちに手を合わせる。
群集の中で立ち尽くすスウと目が合った。駆け寄りたくても、駆け寄れない。その表情は、痛ましいほどだ。
「もう長くは持ちません。ただちに史学科の遺跡から市外へ脱出してください」
言語学科を捨て石にして、逃げろというのだ。皆の良心がそれを承諾できないというのなら、最高責任者が決裁をする他はない。
学園長はぼくへゆっくりとうなづきかけると、中庭に集まった人々へ向きなおった。
「学園の精神は、建物に宿るのではありません。まして、土地に宿るのでもない」
まるで穏やかな朝の訓示のように。
すべてが終わるのではなく、まるでここから新しく始まるかのように。
その言葉の荘重な響きに、状況だけが似つかわしくなかった。
「学園に三十年以上奉職した者」
三分の一ほどのメンターが手を挙げる。
「我々は知恵を結集し、この状況を打開する策をいま少し考えましょう」
「もちろんや。学園がなくなったら、ワシらに行く場所なんかあらへんからな」
史学科長が、皆を代表するかのように学園長の言葉へ賛意を示した。
抗議の声をあげる者はひとりとしていない。歳月に刻まれたものが、彼らの表情を崇高にしていた。
「手を挙げた者以外は、直ちに避難を開始しなさい」
自分たちも残してくれ、と体技科の若いメンターたちが叫ぶ。
「生きることは、死ぬことの何倍も辛い。君たちには使命がある」
学園長は微笑んだ。
「君たちの魂に宿った、学園の精神を存続させなさい」
すすり泣きが広がる。どうやら、大勢は決まったようだ。
ぼくは内心、ホッと胸をなでおろした。学園の全滅をかけた天秤は、さすがに重すぎるからだ。
だがそこで――
「大層な御託を並べておきながら、学園の叡智とやらが一握りのサクリファイスを容認するのでは、寝覚めが悪かろう」
メンターたちをかきわけ現れた声の主は、なんとスリッドだった。逃げたんじゃなかったのか。
「諸君、執行部の判断はまたも誤っている。この重大な局面において、己の意思を放棄し、彼らだけに頼る危険性にそろそろ気がつくべきだ」
おいおい、空気を読めよ。ようやくみんな、逃げる気になったんだ。ここで半日がかりの会議を始める気か。
「私は前回の会議における決定が、運営規則に正しく則ったものだとは考えていない。感情に訴えた扇動、そして稚拙な恫喝。よって、学園長の決裁も正当性を欠いた。それを証拠にいまや、一人の前途あるメンターを見殺しにし、老い先の短い上層部は自死で償いができると、己の迷妄から逃避しようとしている」
「演説はほどほどにしてくれると助かる」
思わず、言っていた。
とたんに鼻血がふき、足元へ垂れる。ああ、もう持たないな、これは。
「はじめて俺に直接反論したな。だが、この緊急時に貴様と議論を行うつもりは毛頭ない。次の学科長会議まで、対決は置くとしよう。実に楽しみだ」
スリッドは不敵に笑う。そして、指先にはさんだ紙片で上空を示した。
「実地検証に必要なものは、感情によらぬ冷静な観察だ。よく見るがいい。最初に受け止めた際の衝撃で、円柱の表面に亀裂が走っているだろう。私の計算通りの力で三箇所からさらなる衝撃を与えれば、あれは五つに分かれるはずだ。質量が分散すれば、吹き飛ばすことも可能になる。できるな、ユウド?」
ぼくはうなづいた。名前で呼びかけられるのはぞっとしないけど、この際、他に方法がない。
「スカアル!」
取り囲むメンターたちから、ひとりが歩み出る。学科長会議でスリッドに公然と反旗を翻した、数秘学科の一員だ。
「私以外の人間による試算が必要だ。よもや、私に協力する気がないとは言うまいな」
スカアルと呼ばれた男は、無愛想にうなづいた。
「無論だ。この頭脳は、いつでも学園のためにある」
体技科長が満面の笑みを浮かべる。嬉しくてしょうがないといった感じだ。
「なるほど、直接ぶん殴るだけってか。おめえさんにしちゃ、珍しくわかりやすい原案じゃねえか」
肩をどやそうとするのを、スリッドは半身でかわす。
「馴れあうつもりはない。だが、共闘が必要な場面で意地だけを通すほど愚かではない」
「かわいくねえなあ」
体技科長は、がりがりと頭をかきまわす。
「まあ、いいさ。賢いお前は頭を使え。俺っちはバカだから、身体を使う。ただどっちも、学園のために使うんだ。そこだけは間違えちゃいけねえ」
もどかしげに、スウが手を挙げた。
「志願させてほしい」
平静に見えるけど、その瞳の奥にあるぼくへの心配は、逆にこっちが苦しくなってくるくらいだ。
しかし、体技科長は首をふる。
「動くものならともかく、止まってンのを殴るのは俺たちの仕事だ。まあ、気持ちはわかるがな。しそこなう気は毛頭ねえさ。だから、あんたはここにいてやんなよ」
体技科長と彼の選抜した二人のメンター、そして連絡役として同行する言語学科の一名が旧棟と新棟の中へ消えてから、永遠が過ぎ去ったかのように思われた。
この状況は、同僚メンターたちには文字通り荷が勝ちすぎた。グラン・ラングを維持できず、ひとり、またひとりと脱落してゆく。その度に、全身へ伝わるプレッシャーがわずかに高まる。
ぼくが立っていられるのは、本来増えたはずの負担をリンが相当度に吸収しているからだ。まったく、若いのに大した才能だ。きっと、末はすごいメンターになるに違いない。
ぼくから学んだプロテジェが、軽々とぼくを追い越してゆくのを見るのは、実に爽快だ。
油断すると重心が流れて、全身の骨がきしみをあげる。時折、胸元にこみあげる熱いもの、それは勇気ではない。視野が狭窄し始めるのは、失血のせいか。いよいよ、まずいことになってきた。

史学科の遺跡にほとんど全員が避難することを受け入れたのは、スリッドの提案のおかげだった。
自殺をしようとしているのではない。みんなが助かる可能性は、逃げる者たちから良心の呵責を和らげるのに充分だった。感情に酔うのではない、理性的な判断を可能にしてくれたことに感謝する。
正直その提案がこれを直接支えている身には、あらゆる楽観を許さない、ほんのわずかの光明でしかないにしても。
だからいま、ぼくをとりかこんで座りこむのは、極めて物好きな連中と言える。
「つきあう必要はないんだ。まだ間に合うよ」
自分の声が驚くほど、か細くかすれるのにびっくりする。
「あほ! あの晩、固く抱きおうて約束したやないか。生まれた場所は違うても、死ぬときはいっしょやて」
涙声のキブが、すごく誤解をまねきそうな言い方をする。
「勘違いしないでもらおう。貴様を信じる信じないが論点ではない。己の演算の正しさを信じている。ただそれだけのことだ」
腕組みをしたまま、スリッドがむっつりと言う。
少し青ざめて見えるのは、やはりこの男でも怖いのか。演算は正しくても、ぼくと体技科のいずれかがその正しい実行を裏切る可能性は十二分にある。
でも、指摘はしなかった。旅行の前日のような、嵐が迫る夜のような、わくわくする連帯感がここにあったから。逆の立場でも、ぼくは彼らと同じ行動を取ったと思う。
己の命より大切なものが、確かにあるのだ。それが嬉しい。
マアナはぼくの胸に顔をうずめたまま、ふたりの方を見ようともしない。本当は逃げて欲しいんだけど、この子がいなくては力場を維持できない。自分の非力が情けない。
スウの姿は見えなかった。よかった、避難してくれたのか。
どうかぼくより長く生きて、いいお嫁さんになってくれ。
記録をたどれば、一千年をさかのぼるペルガナ市国。気の遠くなるようなその継続さえ、いちばんの最初は共同体にも満たないような、人々の寄せ集めから始まった。
少しでも優れた世界を次へ。
少しでも善良な世界を次へ。
その小さな祈りが、莫大な集積としていまに伝わってきている。そう、一度も途絶えることなく。
いま、ぼくの両手にあるのは、その重みだ。ぼくより優秀な次へと受け渡すために、たまたまぼくの両 手のうちにあるに過ぎない。
「配置についたぜ。すぐにぶん殴る」
体技科長の胴間声が耳元で響く。間にあったか。
「三人同時が条件だぞ」
スリッドが念押しをする。わかってる。だが、もう声が出ない。
ぼくの視線を拾ったリンがうなづく。以心伝心とはこのことだ。
「秒読み行います。五秒前から」
「おう、やってくれ」
生か死か。五秒の先に審判は下される。いずれにしても、解放されることには変わりない。
「オオオオォォッ!」
裂帛の呼気が大気を揺らす。グラン・ラングを経由していない。旧棟と新棟の端からだぞ。どんな肺活量だ。
「いまです!」
リンの叫びに合わせて、岩を槌で打つような鈍い音が響いた。
少し遅れて、円柱の表面を五本の亀裂がまっすぐに走り、ぼくの頭上に合流する。
「計算どおりだ!」
拳を握りしめ、スリッドが叫ぶ。
だが、そこまでだった。
円柱は、皺枯れた老婆のような姿に成り果てながら、いまだその命脈を保っていた。
拳を握りしめ、天をあおいだままスリッドが立ち尽くす。
重苦しい沈黙。
何かを言えば、それが現実に影響を与え、事実として確定してしまうのを恐れるかのような。
悲痛な、声にならない叫びがあたりに充満する。
だが、ぼくの胸中は不思議と穏やかだった。やれることはすべてやった。
メンターたちをまとめあげ、流民たちを迎撃し、市国と学園の大半を退避させることに成功した。むしろできすぎなくらいだ。
さらに、己の命までをも求めるのは、求めすぎというものだ。
路傍の石のような人生だった。
何も無く朽ち果てると思っていた。
こんなに求められたことは、なかった。
まるでぼくが、この世界の中心かのように。
惜しむらくは、生きるべき人々を巻きこむこと。
ああ――
楽しかったな。
「我が視力の透徹なるは星をもとらえ」
声がした。
「我が拳の精強なるは金剛石をも粉砕する」
死を求める安寧を切り裂いて。
「我が知恵の深甚なるは世界の深奥へ至り」
死を救済と仰ぐ怠惰を貫いて。
「そして、我が剣技の精妙なるは全ての物質の形状をあまねく規定する」
夢想から我に帰ると、あわてて周囲を見回した。
白布にはっきりとスウの姿が映しだされている。
抜き身をひっさげ、西の尖塔に佇立するその姿。
「我が剣の意思にそむくものは――」
スウの足元が輝き、尖塔の屋根を覆う瓦が宙に散る。
少女は、誰よりも高く跳躍していた。
「己を非存在と心得よ!」
逆手に構えた刀へ、全体重を乗せて落下する。
大気が鳴動し、石柱はぶるりと身を震わせた。
救いを求めるが如き甲高い共鳴音が響き渡る。
衝撃は亀裂を上書きし――
たまらず、五裂。
「いまや、吹き飛ばせ!」
キブが叫ぶ。
だが、ほんの一瞬でも生をあきらめたことが、この両腕から死をはね返す力を奪っていた。
両脚は地へ埋まるほどに重く、どこまでも沈んでゆくようだ。
ひび割れた力場が、質量とエネルギーの拮抗を失ってゆくのがわかる。
焦燥を諦念が上回ったその刹那――
マアナがぼくの二の腕へ、ここぞと激しく噛みついた。
いッてえ!
尖った牙のようなマアナの八重歯はじっさい跳びあがるほど痛かった。
瞬間、ぼくの全身から間欠泉のように無形の力が吹き上がり、まるで重量が無いもののように石柱を吹き飛ばしていた。
それが注ぎこまれた新たなエネルギーのせいだったのか、跳びあがった勢いのせいだったのか、ぼくにはわからなかった。
このとき、もしはるか上空から俯瞰する誰かがいたとすれば、五つの扇状となった石柱は学園の周囲へ広がる花弁と見えたことだろう。
遠くから声が聞こえた。
――我々の目的は成された。黎明王女が統治する地には、いましばらくの平穏を。
頭蓋の内側へ響くようなその声は、すぐに遠ざかり――
歓声が爆発する。狂ったような喜びの中、空から人影が降りてくる。
エネルギーの余波に揺られながら、グラン・ラングに風をまかせて。
ふわりふわりと綿毛のように、折れた刀を提げた少女はぼくのすぐそばへ着地する。
地面に両膝をついたぼくは、もう半身を支えきれなくて、前のめりにスウの胸へと倒れこんだ。
見れば、革靴の先端はふたつに裂け、右膝は火傷に赤くただれている。
「君を守ってくれると言ったのに、結果は逆になったね」
我ながら情けないほどに、力の無い声だった。
「いいえ」
決然とした口調。
「私は、それを失えば生きていられないほどの、大切なものを守ることができました」
泣いているのかな。学園を守れたことが、嬉しいんだろうか。
「メンター・ユウド、あなたは確かに私を守ってくれた」
今度こそ、休んでいいよな。
見上げた空が雲にさえ覆われず青かったので、ぼくは柔らかなものに包まれたまま、意識を失った。